GyazoやCosense、Helpfeelを発明し、現在はテクニカルフェローとして、技術面からプロダクトの発展を支えるのが増井俊之です。シャープ社やソニーの研究所、産総研、米Apple社などで活躍した後、慶應義塾大学環境情報学部で教授を務めています。
増井のこれまでの歩みや実績、そして研究者として大切にしている考えについて聞きました。

スティーブ・ジョブズから呼ばれ、iPhoneの日本語入力システムを開発

──米Apple社で、iPhoneの日本語入力システム開発に携わったときのエピソードをお聞かせください。
2006年の春、スティーブ・ジョブズの秘書から突然電話がかかってきて、「ちょっとアメリカのApple社に遊びに来ないか?」と言われました。目的はよくわからなかったのですが、面白そうなので行ってみました。
Appleではいろいろ見学させてもらったのですが、日程の最後で何故かスティーブ・ジョブズが出てきて「それじゃいつ来る?」みたいに言われました。ここではじめて面接のために呼んだのだということがわかりました。このときは、何をするのかなどは全然教えてもらえませんでした。このように最初からすべてを明かさずに交渉事を進めるのは、ジョブズ流の誘い方らしいですね。
いろいろ調べた後で、「なんか良くわからないけど、せっかくジョブズに誘われたのだから行ってみようか」と決心して2006年10月に渡米しました。iPhoneという新しい携帯端末の日本語入力システムの開発の話だとわかったのは入社してからです。
その後、2006〜2007年にかけて2年弱ほどAppleに在籍し、日本語入力システム(フリック入力)の開発に携わりました。華々しいストーリーのように聞こえるかもしれませんが、実際はかなり苦労の連続でした。日本語入力システムを開発しているにもかかわらず、iPhoneのデザイナーが日本語を話せないアメリカ人だったのです。デザイナーの案を却下する理由を説明して、理解してもらうことに骨が折れました。それに、声の大きい人の意見が通りやすいという雰囲気もあったのです。
ベストな入力方法を決める難しさも感じました。いろんなプロトタイプを作ったのですが、結果として、評判が良かったフリック入力が採用され現在も使われています。しかしこれはまだまだ「ベストな方法」ではないと思っています。未だに、何がベストなのかはわかりません。早く楽に入力できるだけでなく、「楽しい」や「好き」だと感じることも、ベストである要因になると思うからです。
ちなみに、シリコンバレーで起業した洛西さんと再会したのはこの時期です。近所に住んでいて、増井家にもたまに泊まりに来たりしていました。洛西さんが我が家の前に停めていた自転車を盗まれたり、鍵を無くしたりした事件もありました。当時は、一緒にビジネスをしようといった話は出ていませんでした。
研究者として大切な「ドッグフーディング」の姿勢

──増井さんが研究者として大切にしているスタンスや考えをお聞かせいただけますでしょうか。
面白そうなものや自分が欲しいものを考えて、実際に作って、使いながら改良していくことが大事だと思っています。つまり「ドッグフーディング」ですね。
自分で使うからこそ、不便だと感じたらすぐに一生懸命直すじゃないですか。この繰り返しで、良いシステムになっていくのです。しつこくやり続けることが大切。Helpfeelではこうしたドッグフーディング文化が根付いていて、良いことだと思っています。
ところが、世の中は良いアイデアが生まれても商品化に至ることはかなり稀であるのが現実です。研究成果を論文として学会発表しても、その後は忘れ去られてしまうことがほとんどです。UI(ユーザーインターフェース)の学会では、年間何千本もの論文が発表されますが、そこから商品化されたものはほとんどありません。根気強く流行らせようとする人が少なく、論文と商品化がつながらないことは残念に思っています。
そのような中、予測テキスト入力やHelpfeelなど、私の論文から商品化されたものはいくつもあるので、自慢してもいいかなと思っています。

──増井さんがこれまでに開発したプロダクトや、論文などの実績について教えてください。
Helpfeelのサービスなど商品化に至ったものや、その土台となっている論文を中心にご紹介します。
私の研究テーマのひとつに、予測インターフェースというものがあります。予測インターフェースとは、自分が何かの作業をした後に、何をするかを機械が予測して実行してくれる機能のことをいいます。
WebブラウザでURLのはじめの数文字を入れると候補が出てきますよね。その中からアクセスしたいURLを選べば、最後までURLを入力する必要はありません。これは予測インタフェースのひとつですが、POBoxはテキスト入力に予測インタフェースを利用したものです。
POBoxは、開発してから流行らせるまでにとても苦労しました。ワープロソフトを作っていた会社や携帯電話のキャリアなどに提案しましたが、相手にしてもらえませんでした。ソニー社内でもデモや提案を続けていたのですが、携帯電話部隊の人やデザイナーが興味を示してくれたので、なんとか商品化までこぎつけることができました。
商品化するのは運も必要ですが、いろんな方法を根気良く続けているとうまくいくこともあるものだと思いました。

今や世界242の国と地域で2,100万人のユーザーに使われているGyazoは、最初から汎用的な画像アップロードサービスとして開発したわけではありませんでした。当時の私は、画像なぞなぞ認証(※)の研究をしていて、そのために自分独自の画像をサッと撮影して保存することが必要だったのです。この用途でGyazoを開発し、自分で使っていました。
そうして自ら使っているうちに、汎用的な用途で使えるのではないかと思い、今に至ります。これもドッグフーディングの効用で、やってみたからこそ気づけたのです。
(※画像なぞなぞ認証……画像に対して候補単語がリストされており、正しいものを選択すると認証が成功する)

Helpfeel検索の基礎になった論文「展開ヘルプ」
FAQシステム「Helpfeel」の基礎技術になっている論文が、2012年に発表した「展開ヘルプ」です。様々な表現の検索キーワードに少しでもマッチしたら表示するというものです。いろいろな言い回しを自動的に多く作るので「展開」と名付けました。
私は20年以上前から、「ヘルプシステムをなんとかしたい」という問題意識がありました。アプリケーションやOSには大抵ヘルプメニューが用意されていますが、役にたたないと感じている人がほとんどだと思います。
この最大の問題点は、「語彙問題」です。ドキュメントにある単語と、検索に使うキーワードが少しでも違うと、欲しい情報は見つけられません。完全に一致しない限り検索してもヒットしないのです。この問題を解決する方法として、「検索に使われそうなあらゆるキーワードを含むテキストを生成する」という発想でアルゴリズムを作り出しました。また曖昧検索アルゴリズムも併用します。
この考えを当時在籍していた研究所で発表したものの、残念ながら興味を惹くことはありませんでした。それでも、この語彙問題を考え続け、良い実装方法を思いついたので2012年に論文を書いたという経緯です。
その頃になると、良いヘルプシステムを作ろうとする試みは多くの研究者が諦めた分野になってしまっており、論文もほとんどありませんでした。Google検索をすれば、欲しい情報が見つかることが多かったからかもしれません。ただし、新しい情報に関してはGoogleにもデータが少ないため、見つけられません。展開ヘルプを用いれば、この問題を乗り越えられるというメリットがあるのです。

昔から、「個人情報を整理する」という意味で、不特定多数のユーザーがWebブラウザ上でコンテンツを直接編集できるWikiに興味がありました。
以前からマニアックなプログラマは自分のWikiを作っていましたが、多くの人が使うほどにはなっていませんでした。それはなぜだろうと考えてみると、入力が即時反映されず確認ボタンを押す必要があったり、同時編集ができなかったり、タグをつけなければならなかったりと、面倒な作業が多いのが原因だと思ったのです。Wikipediaでもこれらの問題があります。
WYSIWYG(※)のようなものもなかったため、面倒な操作をできるだけ省き、簡単にしたWikiを自分で作っていました。
ちなみにその当時、偶然にも洛西さんも同じようなシステムを作っていたそうです。その後、洛西さんやHelpfeel社のエンジニアのいろんな知見を統合して開発が続けられているのがHelpfeel Cosenseです。
Cosenseはナレッジ共有サービスとして、コミュニケーションの目的で利用されることが多いのですが、私は撮った写真を保存するなど、データベース的にも使っています。家族の情報共有にもCosenseを使っています。
(※WYSIWYG……What You See Is What You Get:編集中の画面に表示されるものが、そのままHTMLや印刷表示などの最終結果になるアプリケーション)


未来を担う若手エンジニアの育成

──増井さんは、複数の立場で若手エンジニアの育成もされていると思います。Helpfeelではテクニカルフェローの役割を担っていただいていますが、具体的にはどのような関わり方をしていますか。
今の自分の役割としては、将来を見据えたアイデア出しと若手育成だと思い、会議に参加したり、CosenseやSlackで気づいたことを提案したりしています。Helpfeelが提供している各プロダクトの実装や改善は、若いエンジニアが得意ですから。生成AIの活用もどんどん進んでいますしね。
また、物事を考え続ける大切さや、自分で使い続けて改善点を見出していくことなど、私が研究において大事にしてきたことをエンジニアに伝えており、社内では「増井学」と呼ばれているようです。
──若手育成の観点では、経済産業省がIPA(独立行政法人 情報処理推進機構)を通じて実施している「未踏IT人材発掘・育成事業」でも、担当プロジェクトマネージャー(PM)として審査や評価をされていました。どのような方をサポートしてきたのでしょうか。
洛西さん(Helpfeel代表取締役CEO)をはじめ、秋田純一氏(金沢大学教授)、五十嵐健夫氏(東京大学大学院教授)、曾川景介氏(newmo Co-Founder / CTO)、田川欣哉氏(Takram代表)、塚田浩二氏(はこだて未来大学教授)、福島良典氏(LayerX代表取締役CEO、Gunosy創業者)、水口充氏(京都産業大学教授)、渡邊恵太氏(明治大学教授)などです。顔ぶれを見ると、起業家か研究者が多いですね。未踏には担当PMという立場で関わりましたが、私自身、UI分野の人脈が広がって感謝しています。